ご存知でしたか?白根の歴史およびまちを形づくる施設の歴史をご紹介します。
「斉藤橋(代官橋)と中堀川・白根通りのむかし」を本ページ中ほどに追加掲載しました!是非ご一読ください。(2017/11/12)
白根の歴史
白根町の白根の語源は、独眼(ひとりね)からきているようである。(日本大辞林)
万葉集の防人(さきもり)の歌三十六首の中にある。755年(天平勝宝7年)武蔵国都築郡(つづきぐん)上丁(かみつよほろ)の服部於由(はとりべのおゆ)とその妻 呰女(あだめ)の二人の歌は、九州に警備に行く夫の心とその帰りを待つ妻の心を歌っている。
都築郡上丁 服部於由の詠み歌
『我が行(ゆ)きの息衝(いきつ)くしかば足柄の 峰延(みねは)は雲を見とと偲(しの)はね』
「私の旅が長いため、恋しく思う時は、足柄山の峰にかかる雲を眺め、心を和らげなさい……」と別離の悲しい想いを詠っている。
妻・服部呰女の詠み歌
『我が脊(せ)なを筑紫(つくし)へ遣(や)りて愛(うつく)しみ 帯は解かななあやにかも寝(ね)も』
「わが夫を筑紫へ送り出し、それが心配で夜も帯を解かず夢にも離れず、あなたを偲び、ひとり寝をする。……」と別離の寂しい思いを詠んだ。
白根三丁目の「白糸の滝」を背に二人の歌碑があり「都築の万葉の歌碑 ―防人(さきもり)の歌(うた)―」一首が刻まれている。都築郡の地名は、万葉集の歌に出てくるのが最初とされている。奈良時代には、すでに都築郡と呼ばれていたことになる。
白根村は、古くは小机領、後に神奈川領、戦国末期の小田原北条分国のころの白根は、遠山左衛門が支配し、このとき民家は55戸あったと記載されている。
1591年(天正19年頃) |
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1673年(延宝元年) |
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1871年(明治4年) |
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1875年(明治8年)10月22日 |
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1889年(明治22年)3月16日 |
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1939年(昭和14年)4月1日 |
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1941年(昭和16年)1月1日 |
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1969年(昭和44年)10月1日 |
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1988年(昭和63年)7月25日 |
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※参考文献:旭区郷土史、あさひ区内散見、都岡村の今と昔、不動の森
斉藤橋(代官橋)と中堀川・白根通りのむかし
斉藤橋は代官橋とも言われ、現在の橋は昭和63年(1988)に竣工された。中堀川は、白根通りの拡幅整備に伴い函渠工(かんきょこう)され、護岸工事としても進められている。斉藤橋の姿は、拡幅工事が進むにつれて消えゆくものと思われる。(旭区白根3-28)
斉藤橋の由来は、代官斉藤氏の祖先が鎌倉時代の武士斉藤伊代守と言われ、戦場で主君を喪い白根へ隠遁(いんとん)し、農民として住みこの地を開いた。
その後、斉藤氏が代官として幕末まで代々その職務についていたことから、斉藤橋(代官橋)、代官屋敷と言った地名が残っている。
中堀川は、むかし曲がりくねった川だったため、大雨のたびに氾濫し暴れ川であったことから、宝永元年~7年(1704~1710)代官の斉藤市左ヱ門の時代に、中白根付近から斉藤橋までの約500メートル区間の水路を直線化する大改修工事が行われ、白根通りに沿ったきれいな中堀川ができた。
中堀川は、西ひかりが丘団地の裏山、通称「上白根耕地」と呼ばれる付近が水源としていたが、開発が進むに従って水量が激減した。
斉藤氏による改修工事が行われた区間を「中堀川」、それより上流を「古川 (ふっかわ)」と呼ばれていた。
昭和26年(1951)から27年ころ村を縦貫する道路を築造する際も中堀川が改修された。
昭和34年(1959)斉藤橋から下流が二級河川に指定されたことから中堀川に統一された。
白根神社境内を流れる中堀川は、他の部分の護岸工事と異なり、景観を活かした河川改修が行われ、むかし懐かしい静かで心のやすらぎを感じる川となっている。
白根通りは、江戸時代から明治中期かけ、八王子街道(国道16号)と中原街道を結ぶ中堀川に沿ったくねくねと蛇行した牛車がやっと通れるほどの細い農道、雨が降るとぬかるみの道となり、牛車が通るのも困難な悪路であった。
昭和22年(1947)から23年にかけ、岩崎安太郎氏、斉藤佐一氏、高橋憲作氏等が道路愛護会を作り、昭和25年(1950)から水路の移築と道路の改修工事を開始し、昭和27年(1952) 9月に全長約2.4キロメートル、道幅約7.5メートルの道路が完成し、現在の白根通りの原型となった。
その後、幾たびかの道路整備が行われ、昭和34年(1959)12月には路線バスが通れるまで整備された。
参考文献
- あさひ区内散見
- 都岡村の今と昔
- 水辺からのレポート
- 旭区郷土史
馬頭観世音
旧八王子街道わきに、草に埋もれた小さな馬頭観世音があり、この観世音には、次のような言い伝えが残っています。(旭区白根 1-14)
今から約175年前の天保12年(1841)の春ごろの話です。
馬を数頭飼っている馬主の米造という男がいました。米造には、タエという18歳になるひとり娘がいて「若駒」とよばれる駿馬をことのほか大事にしていました。若駒は、農耕や荷役によく働く優れた馬でしたが、あるとき急に苦しみ出し病に倒れました。
タエは、若駒のことが心配で神奈川在に住む獣医に診てもらおうと、ある朝早く出かけました。ところが、馬頭観世音が見られる旧八王子街道どうしたことか、いつまでたってもタエは帰ってきません。村人たちも八方手を尽くしたが全く行方知れず、家の者たちが途方に暮れていると、馬小屋の方から、病気の若駒が一声いななき、それっきり姿を消してしまいました。それから数日後、タエは若駒に連れられて、どこからかひょっこり帰ってきました。
しかし、若駒は病気の体で無理をしたためか、しばらくして帰らぬ旅につきました。そこで村人たちは、若駒のため馬頭観世音を建てて供養しました。
その供養が終わると、タエは若駒の後を追うかのように帰らぬ人となり、村人たちは、若駒とタエがあの世できっと結ばれたのだろうと噂をしていたそうです。
馬頭観世音は、一般には愛馬や重い荷物を背負って行き倒れた馬を供養するために祭った石塔のことをいいます。
参考文献 あさひ区内散見
子育て地蔵菩薩
愛宕山(あたごやま)は国道16号と白根不動尊とを結ぶ参道の入口に位置しています。(旭区白根 2-16)
康平5年(1062)源義家は阿部貞任(あべのさだとう)・宗任(むねとう)を討ちに奥州へ行くとき、白根不動へお参りして戦勝を祈ったと伝えられています。
そして、大勝して帰ってきたとき、自分と運命をともにした愛剣を白根不動の近くの愛宕山頂に納めました。
この剣(つるぎ)は明治の初めに三つに折れた状態で掘りだされました。そのあとに目印として、子育地蔵菩薩(こそだてじぞうぼさつ)が安置されていましたが、現在は、その場所から約20メートルのところに社(やしろ)に建てなおされています。
なお、武蔵風土記や金沢文庫には、この付近の地名として「木たご山」と記されています。愛宕山はこの名称が変化したものと思われます。
参考文献 あさひ区内散見
不動丸小学校
横浜市立不動丸小学校は、校庭を白根ふれあい大運動会(主催:白根地区町内会自治会連合会)の会場として借りたり、地域の防災拠点に指定されるなど、白根町内会と関わりの深い学校です。
以下の歴史を経て、1973年(昭和48年)に創立されました。
1873年(明治06年) |
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1880年(明治13年) |
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1921年(大正10年) |
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1941年(昭和16年) |
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1947年(昭和22年) |
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1956年(昭和31年) |
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1973年(昭和48年) |
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なお、校名は昔からの地名である「字不動丸」が取り入れられたものです。
白根不動、白根神社とその周辺
白根不動と白根神社は、白根公園に隣接し、白根のお不動さんとして知られ親しまれています。
白根不動尊は、不動堂(不動明王)と白根神社(日本武尊(やまとたけるのみこと))とが同一境内に神仏一体系の信仰として祀られたといわれています。
現在の白根神社は、明治維新以前までは白瀧山(はくろうざん)成願寺(1063年~)と称されていましたが、1868年(明治元年)、神仏判然令(はんぜんれい)により白瀧山成願寺が廃寺となり、白根神社と称されるようになりました。
白根神社は幾度かの火災により焼失しましたが、1920年(大正9年)に再建。1971年(昭和46年)には不動堂が再建されました。
白根不動尊の境内に流れる中堀川には「白糸の滝」があり、滝を背に「都筑の万葉の歌碑 ~防人の歌(さきもりのうた)~」の碑が建てられています。
「防人の歌」とは、都筑の地から遠い九州沿岸防備に徴兵された防人が、愛する妻との別れを惜しみ詠んだもので、「都筑の万葉の歌碑」には、兵部省小輔であった大伴家持(718~785)が「万葉集」第20巻に収めた一首が刻まれています。
なお、都筑の地名は、万葉集の歌に出てくるのが最初とされています。